先日、子育て支援センターで子どもと遊んでいたときの話です。支援センターには普段、幼稚園に入る前までの小さな人たちとお母さん方が遊びに来ています。土曜日だったその日は、幼稚園生のお姉さんたちも数人遊びに来ていました。

おままごとや電車、レゴブロックに粘土。ごろんっとねんねしている赤ちゃんエリア。子どもたちは、色んな遊びを行ったり来たり、いそがしそうです。

そんな中、5歳くらいの女の子と3歳の女の子が、お互い振り向きざまに「ごちーーんっ!!」
クリーンヒット。
「うわぁぁあぁぁぁぁ~~~ん!!!」
3歳の女の子の大きな大きな泣き声が、一瞬にして響き渡りました。

ちょうどそれを見ていた、5歳の女の子のパパは、とっさにその3歳の女の子に駆け寄り、「ごめんね、痛かったね~ごめんねぇ、大丈夫?」と。そのパパは1歳にもならない小さな赤ちゃんを抱っこしていました。その横で、ぶつかった5歳の女の子は、立ちすくんだまま呆然として動けなくなっていました。

周りの注意が泣き崩れている3歳の女の子に向いている中、5歳のお姉さんは唇をかみ締めていました。そっと、その女の子に「おねえさんだからって我慢しなくていいんだよ。痛かったよね。おねえさんだって痛かったよ。」と伝えると、ポロポロぽろぽろ女の子の目から大粒の涙が溢れ出てきました。
「わぁぁ~~~~んっ」
泣きました。お姉さんも泣きました。

ふたりのおでこを冷やしてあげて、周りも落ち着いた頃、もうすっかり違う遊びに夢中になっている3歳の女の子のところに、5歳の女の子が近づいていく姿を見ました。

「さっき、痛かったね。ゴメンね。」

優しさや、親切って、教わるものじゃない。ちゃんと沸いて出てくるものなんだと思います。
自分の気持ちをおいてけぼりになんてしないで、ちゃんと見つけてあげたら、きっと出てきます。

自分のどこに触れればいいんだろう。ちゃんと沸いて出てくるかしら。そんな不安すら抱いてしまうほど、私たち大人は、誰かの常識や儀礼にのっとって日常生活をやり過ごしているかもしれませんね。こういう時は謝るべきだ、先に譲ったほうがいい・・・などといったように。

子どもは正直の達人です。「か~し~て」のお返事は、「い~や~よ」のことが多々あります。だって、今私が夢中なんですもの。それが他の子に魅力的に見えるのは当たり前。それをすぐに切り上げて貸してあげられるような遊びはそうそうありません。

でも、近くにいる大人は、「かしてあげなよ~」と自分の子を責めてしまいがち。誰かにいい子に思われないといけないのかな。我慢してまでいい子にならなきゃいけないことなんて本当にあるのかな。そのせいで、自分自身をおいてけぼりにはしていないかな。

子どもたちのありのままのやりとりを見ていて、そしてそれを大人の言い分で注意してみて、悲しい表情をする子どもをみて、ハッとするときがあります。満足するまで遊んだら、次の子が使うことに文句を言う子はいません。満足する前に貸さなきゃいけなかった子は、文句を言います。当たり前のことなのに、大人はやりがちですよね。

子どもたちみたいに、純粋にいることをもう一度思い出してみよう。私の中に、「かして」に対する「どうぞ」が沸いて出てくるのを待ってみよう。誰か、責めるだろうか。そう思い込んでいるだけではないだろうか。

スワミ・サッチダーナンダ氏は「インテグラル・ヨーガ」の中で、
『人間は心に映った自分の像を自分とみなす。そこでもし心がたくさん波立っている湖面のような状態だったら、そこに映っている像も当然歪んでいるだろうし、心という湖が濁っていたり色がついていたりすれば、自分自身が濁っていたり、色がついていたりするように見える。
だからわれわれは、本当の姿が見えるように、その水をいつも澄んだ、穏やかな、波のない状態にしておかなければならない。』

と言っています。

誰かにとっていい子じゃなきゃいけない・・・という心もまた、自分自身の作り上げた心の色なのかもしれません。心の湖の波を鎮め、濁りをおさめ、その湖底に目を向けていくと、そこから湧き出てくる何かに気づけるかもしれません。きっと、そこには愛があるのだと私は思うのです。

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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子