渋谷駅から10分少々のところに、御鎮座923年目となる由緒正しき「金王八幡宮」がある。緑に囲まれた境内はとても心地よく、参拝者も多い。置かれたベンチに座って一息ついたりお弁当を食べたりする人も。ここで権禰宜という神職を務めるのが、オーストリアからやってきたウィルチコ・フローリアンさん。

白衣に身を包み、浅葱色の袴をはく。「これは待機のときの服。袴の色は身分を表します。私はまだ下っ端ですが、いつか紫になる‥はずです」とにこやかに話す日本語はとても流暢で、ユーモアも感じさせる。神事の際には狩衣(かりぎぬ)と呼ばれる装束を身に着け、烏帽子を被り、笏(しゃく)を手にする。私たちが訪れたのは5月下旬。6月1日から衣替えだそうで、畳の上にはちょうど夏の装束が並べてあった。

14歳で神道に目覚め、奥深さに魅了されていく

今年27歳になるウィルチコさんが初めて日本を訪れたのは14歳のとき。家族と一緒の旅行だったが、それ以前に本で神道や神社のことを知り、興味があったという。「最初は神社仏閣の建築とか、単純に目に見えるものに惹かれました。実際に行ってみるとなんか気持ちいいな、と直感的に。そのときはまさか自分が神職に就くなんて思ってもいませんでした」

そのときに買い求めたという神棚は、今も故郷オーストリアの実家にある。14歳の、ヨーロッパに住む少年が神棚とは驚くばかりだが、もともと探究心旺盛だった彼の神道への興味はその後ますます増幅していく。

「調べていくととにかくすべてに名前があり、意味があることに驚きました。ほんの一例ですが‥」と、社殿の屋根の部分を指差す。「あれは懸魚(けぎょ)。神社仏閣の屋根には必ず下がっています。屋根の下に水のものをかけると火事が起こらないといわれているためです。装束にしても細かい部分ひとつひとつに名前があり、意味があります。興味のないことを覚えなさいといわれたら地獄だけど、私は知れば知るほど面白いと思ったし、奥深さに惹かれました」

「天職だと思っていますが、大変だと感じることもなくはないです。ただ、勉強に関していえば、つらくはなかったですね。好きなこと、極端に言えば趣味だから。落ち込むことも多いですよ。今でもしょっちゅう上の者に叱られますし。でもなぜ次の日もまた続けられるか。それは、続ける価値があると思うから。どんな仕事も同じでしょう?」

神道は宗教ではなく、生活そのもの

神道は「神の道」。「宗教」ではないから、教えも戒律も宗派もない。神を信じるか信じないかという質問をされることもない。「キリスト教でいうGODは唯一の絶対的な存在ですが、神道では八百万(やおよろず)の神様。悪い神様もいればいい神様もいて、いい意味で曖昧なのです」

戒律がないということは、自分で善悪を判断するということだ。「私は愚直という考え方が好きです。清く正しく明るく直く。そんな人間臭い部分も神道の大きな魅力です」

「神道は生活そのもの」とウィルチコさんは考えている。神社には昔から続く日本人の正しい暮らし方がきちんと残っている、と。朝は窓を開けて外から瑞気を取り入れ、夜には閉める。たとえばそんなことも昔の日本人は当たり前にしてきたことで、神社では今もそれが受け継がれている。

日本の歴史は長い。そこで培われたものをすべて日々の生活に活かすのは難しいだろう。「本来の意味ややり方を理解して、肝となるところをはずさなければ、現代の日常や自分のライフスタイルに合うようにアレンジしてもいいと思います。昔の人だって、生活に合わせてアレンジしてきたのではないかと思います。でも何を省略するかは、いい加減な判断ではなかったはず。神社を訪れる人からも何をどうすればいいかよく聞かれますが、私はこう答えます。一番長く続けられそうな感じでやってください、と」

神棚を祀(まつ)ることが、暮らしを変えるきっかけになるかもしれない

たとえば、小さな神棚が部屋にあるというのは心地いいんじゃないでしょうか、と言われて思い出した。子どもの頃に田舎の祖母が「野菜がよく育つように氏神様にお願いしておこう」「ケガが早く治るようにお参りしよう」と水やごはんを毎日お供えしていたのを。小さく古びていて、みんなに大事にされている神棚と神様用の食器は、子ども心に大切なものだと感じた。「そう。想いを込めて頭を下げればそれでいいのです。せっかく置くのなら、オブジェではなく、活かしたいでしょ」

彼はほかにも、床の間を例に挙げた。昔の日本は必ず床の間があって、季節に合わせた設えをしたり、花を飾ったりしていたものだ。「意外とそんな風に“無理をして変える”ことで、癒しのようなものにつながっていくんじゃないでしょうか。何かひとつを変えると暮らしが変わっていくというか。神棚を置くのも、そういうきっかけになるかもしれません」

花を飾るために床の間を作ろう、神棚を置くために和室が必要だ、ということでは無論ない。それこそアレンジした上で、長く続けられるやり方を取り入れればいい。

参拝とは神様への「ご挨拶」。想いを込めればそれでいい

900年以上もの長い間、この神社は多くの人の関わりの中で守られてきた。見事な社殿は402年前のもので、徳川家により奉納された江戸様式だという。「白木に漆を何層にも塗る檜造りです。当時の最高技術ですよね。これだけのものを後世に残そうとした先人たちの想いが今でもはっきりと伝わってくる気がします」建築そのものの価値以上に、人々の想いが詰まっている。神社はそういう場所なのだ。

「神社や神道は、世界遺産とか重要文化財みたいなことじゃないと思います。“遺された”ものなんかじゃないし、ガラスケースに飾って眺めるものでもない。私は“文化の宝物”だと思っています。日常に取り入れて、大切に継承しなくては。一度なくしたものはなかなか復活できませんよ」

あなたの町にも神社があるだろう。その神社は土地の鎮守。美しい鳥居や心地いい緑に惹かれ、ひとときの休息を求めて立ち寄ってもいい。作法を知らないからと躊躇する必要はない。そして気持ちよくリフレッシュできたら、感謝の念を抱くだろう。その想いを伝えるために、気持ちを込めてお参りすればそれでいいのです、と教えられた。

「お参りのとき願い事をしてはいけないと思われている人もいるようですが、そんなことはありません。神様に何かをお願いしてもいいし、逆に何もお願いしなくてもいい。お参り=ご挨拶、ですから」

神社が神聖な場所であることは間違いない。歴史的、建築的に価値があることも自明の理だ。でも、そこに堅苦しい戒律はないし、神を信じて祈りなさいと強要されることもない。必要なのは、人々が敬い続けてきた場所を大切にしよう、という“想い”だ。

「その想いがあれば、境内でお子さんが遊んだって失礼にはあたりません。むしろ神様はにぎやかなのがお好きですから」それはとても寛容で、いい意味でゆるくて、親しみがわく感覚ではないだろうか。地域のコミュニティの幸せにつながっていく場所、それが神社なのかもしれない。

もっと気軽に神社を訪れたいと思った。

写真 SHIge KIDOUE /文 Kaoli Yamane