空間やプロダクトのデザイナーとして、国内はもとより海外でも高い評価を得ている柳原照弘さん。400年続く有田焼を、インターナショナル・プロジェクトとして発信させたブランド「1616 / arita japan」は海外で注目を浴び、日本で有田焼が再評価されるきっかけにもなっている。

何をどう作りたいのかではなく、何のためにどう使いたいのか。

柳原さんの「状況をデザインする」という考え方が生まれたのは、学生時代。建築家になろうと大学に入ったけれど、大学でのカリキュラムにあまり魅力を感じない。漠然と不安を抱える中で、ただ、フィンランドを代表する建築家でデザイナーのアルヴァ・アールトが好きだった。「なぜアールトのデザインに惹かれるのか。その理由がわからないから、彼の作品を見に行ってみよう」と、冬休みを利用してヘルシンキへ。クリスマスの華やかさを期待して行ったのに、ウィンターホリデーで公共施設もショップもお休み。途方にくれながら表通りの一本裏を入ってみると、住宅が連なった通りで、どの窓にもカーテンはなく明かりがもれていた。中では家族でキャンドルを囲みクリスマスの食事。
「よく見ると、そこには写真でしか見たことがなかったアールトの家具があったんです。特別なものではなく、日常に使う家具として。その時、これこそがデザインの仕事だと思いました」

大学卒業後は、あえて就職をせずに自身の事務所を設立。とはいえ、実績がないのでアイディアを提案するしかなく、依頼を受けたものを掘り下げて本当に必要なものは何かを追求した。

ある時「赤いソファーを作ってほしい」というオファーがあった。デザイナーならきっとカッコいいソファーをデザインするのかもしれない。でも、建築家が考えたものと実際に使う人のライフスタイルとギャップがあっては意味がない。上辺だけの欲しいものを作っても、きっとそのうち使わなくなってしまう。「結局、家具ではなくて、家に合った縁側のような造作を提案しました」。

知り合いの紹介で、美容専門学校から依頼が来た。でもその内容は、教室の机や椅子を発注するにあたっての見積もりをだすこと。「デザインをするのではない。つまり僕の仕事ではありませんでした」。でも一応話を聞いてみると、新しい生徒を呼び込むために新校舎を作るという。そこに入れる什器にいくらかかるのかを知りたいということだった。一見当たり前のようだけれど、柳原さんに言わせると、「経済優先で、そこに生徒の気持ちはまるで入っていない。そもそも生徒を呼びたいのなら、重要なのは箱ではなく、ここで学びたいと思う生徒の気持ちのはず。だから、見積もり依頼とは関係なく、勝手に新校舎のコンセプトをプレゼンしてみたんです」。彼の熱心な話を聞いた理事長は、すでに着工が始まっていた工事を停止して「考えられる好きなことをやってみなさい」と、一年間の猶予をくれた。結果的に10階建ての専門学校のビルを設計することになった。

「何をどう作りたいのかではなく、何のためにどう使いたいのかを一緒に考えていくこと。それがとても大切なことだと実感しました」。それから肩書きを、建築家ではなく、デザイナーにした。建築家だと建物を建てることが前提になってしまう。空間であれモノであれ、必要ならばデザインする。必要がなければ、他の方法を考える。

そしてもうひとつ、柳原さんの今の土台となる出逢いが20代前半にあった。彼の最初の展示はストックホルムファニチャーフェアへの出展。いきなり海外からの出発だった。
「地方から東京に出ていってもまず認められないと思ったから。でも、海外経由ならあり得るのではないかと」。
そのストックホルムでの初出展で賞を受賞するという快挙を果たす。たくさんのメーカーが受賞作品を商品化したいと言ってきたし、当然浮足立った。

そんな中、北欧を代表するオフェクトという会社の社長とデザインディレクターまでもがやってきて、作品をほめてくれた。でも、「うちでは商品化はできない」という。なぜなら、「これはオフェクトのブランドコンセプトで作られたものではないからだ」と。「とても衝撃的でした」。ブランドとしてのコンセプトに一切妥協をしない。アールトと同じように惹きつけられた。

「だからオフェクトのために家具をデザインしました。もちろん依頼されたわけでないけれど。ストックホルムから1年後、今度は東京で展示会をしました」。オフェクトの社長もわざわざ来日し「まさにオフェクトのコンセプトだ」と言ってくれたという。それなのに、商品化の話にはならなかった。「もちろんオフェクトのためのもののだから、どこかに持っていくわけにもいかないし」。それから1年間なんの動きもなく、ついにお蔵入りかと思っていたころ、再び社長から連絡がきた。

仕事のパートナーとして本当にやっていけるかどうかをリサーチし、社内で話し合って結論を出すのに1年かかったという。その結果、ついに商品化が決まった。オフェクトは、ひとつの作品ではなく、柳原さんの仕事全体を見て判断したのだ。「デザインの責任はデザイナーにあるけれど、売る責任はメーカーにあるから」と。「その出会いがあったから、時間がかかってもひとつひとつ、きちんと考えてやっていこうと思ったんです」。

モノづくりを通して、世界の人が有田と繋がること。

国内外でデザインの仕事をするようになり、だんだんと実績もできてきた頃、ある時、有田で長く有田焼を扱ってきた総合商社「百田陶園(ももたとうえん)」から連絡がきた。
有田焼の厳しい現状を何とかするため首都圏に向けて発信すべく、東京のパレスホテルにショールームを作るという。そのインテリアデザインの依頼だった。

「話を聞いて思ったことは、パレスホテルに見合った空間をデザインすることはできるけれど、現状の有田焼とはギャップがありすぎて、リンクさせることは難しい。空間だけ作ってもきっと客は来ないからやめたほうがいいと、率直に言いました」。
すると、「そもそも目的は有田焼を活性化させることで、ショールームを作ることではないから、新しい取り組みのためのブランド作りと、新しい空間デザインの両方をお願いできますか」と言われ、即決で引き受けることに。

有田焼は1616年に有田東部の泉山で白磁鉱が発見されたことから始まったとされる。高い技術が認められ、幕府に献上されたり、東インド会社を通して海外へ輸出もされたりした。その長い歴史がバブル時代になって、クオリティではなく名前で売れるようになってしまった。高級料亭が有田焼というだけで実物も見ずに買った時代。そしてバブルが終わると、多分にもれず有田全体が厳しい状況に陥ってしまったのだ。

そこで、400年の歴史を持つ有田焼を終わらせないために、有田全体を盛り上げようと百田陶園が名乗りを上げた。そうして柳原さんのプロデュースによる、有田焼が始まった年を冠にしたブランド「1616 / arita japan」が立ちあがった。そしてまずは柳原さん流に、国内ではなく世界に向けて発信。2012年、ミラノサローネへの出展がデビューの場となった。正確で美しいラインを描く有田焼の高い技術は海外で「スーパーテクニック!」と称賛された。

柳原さんがデザインした「1616 / arita japan」のTY Standard。中でも、花を思わせる「パレスプレート」は、パレスホテル東京ためにデザインされたものだ。

2013年にはエル・デコインターナショナルアウォードのテーブルウェア部門で賞を受賞。その後、ジョージ・ジェンセンやHAYなどの海外ブランドから、「自分たちの技術ではできなかったことが有田なら実現できるのでは、とオファーもきはじめた。さらには、日本人からも注目されるように。有田焼を名前で買うのではなく、欲しいと思ったものが有田焼だったと、順番が逆転したのだ。

そして有田焼が誕生して400年となる2016年に向けて、新たなプロジェクトが始まっている。「1616 / arita japan」の実績を知った佐賀県知事が、百田陶園の社長からそのプロジェクトの概要を聞き、400年記念の県事業にプロデューサーとして参加してほしいとオファーをしてきた。そこで、柳原さんプロデュースによる、16人の海外デザイナーと16の窯元と16の商社による新たなブランド「2016 / 」がスタートしたのだ。

「1616 / arita japan」も海外から始めたので、この新たなプロジェクトもインターナショナルなものにすることにしたという。かつて有田焼は東インド会社と繋がりがあったという歴史から、オランダ大使館がこのプロジェクトに賛同し、オランダと佐賀県の共同事業にもなった。
今は、有田に16人のデザイナーを招きながら、商品開発を進めている最中だ。当初は、彼らが滞在したりミーティングしたりする場所がなかったので、そのスペースも作った。いずれは有田に世界中からシェフを呼んで、有田の器を使ったレストランをやりたいそうだ。

柳原さんが敬愛し、憧れるスウェーデンのデザイナー、インゲヤード・ローマンのカップ。「2016 / 」のプロジェクトには、彼女の参加も決まっている。

有田焼の面白いところは「多様性」だと柳原さんは言う。作家もいれば、メーカーもあって、技術者や絵付け師もいて。それを統制するのではなく、いろいろな部分が求められればいいという。それぞれに気に入ったところを求めて、有田に世界中から人が集まってくる。そんな土地にすることが、有田を継続させていく方法ではないかと。
「目的はモノをつくることではなく、モノづくりを通して世界の人たちが有田と繋がることなので」。

写真 野頭 尚子 /文 横山 直美