6年生の娘が、ある時学校の文句を言っていました。
「私も指揮者やりたかったのに、先生は勝手に5年生の子に決めた。他にもやりたい6年生がたくさんいたのに。」
どうやら、音楽会の特設合唱団の指揮者になれなかったことを先生のえこひいきでダメだったと訴えているようです。
「どうしてその子に決まったんだと思う?」と聞くと、カリカリしながら
「知らな~い」と一言。愚痴をいえば収まる感情なのかな~と思い、「そうかぁ」などと軽く相槌を打っていたのですが、彼女の愚痴はなかなか収まりません。

なぜなのか・・・なんて、いくらでも理由は列挙できます。
「6年生はほかに見せ場がたくさんあるからじゃない?去年あなたたちが5年だったころは自分たちの中から選ばれなかったっけ? 6年生は忙しいから負担を少なくするための先生からの配慮かもよ?」
そんなことでは納得する気はないようです。

結果、「どうしたいのよ?」とカリカリしている娘に私までイライラして、「文句ばっかり言ってても仕方ないじゃない」と険悪な空気になってしまいました。

彼女は、いつになくクヨクヨしていました。そして顔を赤らめてこう言いました。
「これは、…これは嫉妬かもしれないけどさ…」
「嫉妬」という言葉が出てきました。そして、次に出てきた感情は、「あ、これ嫉妬か!」突然、娘の表情が晴れました。どうするのかな?と思って聞いていましたら、「私頑張ろう。私の頑張りが足りてないだけか!もう一回先生に6年にもチャンスちょうだいって掛け合ってみよう。」

なんてたくましいんだろうと思いました。私だったらそこに向き合いもせずに、仕方ないと諦めて程度よく自分のやれることしかやらないかもしれない。

子どもの純粋さに圧倒されました。嫉妬という感情に気づいて、そこへの違和感に正直で、嫉妬に支配されて、自分がやりたいことを真っすぐやっていないことに気づいた。そして実行しようとする勇気と行動力。彼女の中から湧いて出てくる力。

ヨガには「制感」(プラティヤーハーラ)という言葉があります。「感覚」を「制御」すると書きます。私たちの心はいつも外側の事象にひっぱられ、右往左往しています。目で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの…それらから受けた感覚をもとに生ずる感情を自分自身だと思い込んでいる。

諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するとき
ーーそれがプラティヤーハーラ〔制感〕である。
ヨーガ・スートラⅡ-54


心が感覚対象から引っ込むと、感覚器官もそれぞれの対象から退く。
ーー感覚は、外を向くことを許されると、外界を把握し、描こうとする。だがうちに向けてらると、心の純粋性を見て、外界の色をとらない。感覚は鏡のようなものである、すなわち外向きにすると外を映し出し、内向きにすると純粋な光を醸し出すーー。
インテグラルヨーガP.270より原文


なんだかまた、子どもに教えられるような出来事でした。結局、彼女は指揮者になることはなかったけれど、晴れ晴れした顔で生き生きと合唱している姿がありました。涙が出るほど美しい姿でした。

感覚・感情に惑わされないで、内側につながっていくことの大切さ。

こども大先生、あっぱれです。

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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子