先日、保育園に娘のお迎えに行きますと、教室に入ろうとする私にドアの窓越しに気づいた娘が、
「・・・まだ来ないで・・・」とアイコンタクトで伝えてきました。
少し元気がないように見えましたが、お友だちとコマを回して遊んでいる最中で、もうちょっとやりたいという合図かと思い、壁の掲示物や子どもたちの絵、保育日誌などを読みながら待っていました。

担任の先生が私に気づき、「おかえりなさい」と声をかけてくださり、
「実はさっき、〇〇ちゃん(娘)とお友だちが凄く派手にケンカをしまして…」
聞けば、そのお友だちは今一緒にコマを回している女の子。

「みんなが遊ぶ手止めて注目するような大きなケンカだったんです。ふたりとも大声で泣きながら言い合うようなケンカだったので、中に入ろうと思って声をかけたんですけど、〇〇ちゃんに『大人は入ってこないで!』と怒られまして。だからケンカの原因や内容はわからないんですけど、今はあの状態です。」

なるほど、「まだ来ないで」のアイコンタクトの元気のなさはそれが原因か。先生に、「今は遊んでいるみたいですね。ふたりでどうにかしたんですね!」と伝えると、先生は、「そうなんですよ~!!!」となんだか嬉しそうに教えてくれました。

帰り道、「さっき、△△ちゃんとケンカしたんだって~?」と話を切り出すと、
「・・・うん。でも、話したくない・・・」
「そっか。でも、大人に頼らず自分たちで解決したって聞いたからすごいな~って思って」
すると、ぽつりぽつり、事の発端を話し始めました。

いつも言葉がきついことが嫌だったことを、伝えたんだけど、その自分の伝え方も強くなってしまったと。どっちの方が悪いの言い合いだったんだけど、言ってるうちに仲よく遊びたいのに悲しくなってきてしまったんだと言うんです。

聞きながら可愛くて可愛くて、ぽつりぽつり話している娘の横で手をつなぎながらにやけてしまう私がいました。
「それでどうしたの?」
「強く言うの嫌いだけど、遊びたいって言った・・・」
「そしたら?」
「わたしも△△ちゃんもごめんねした・・・」
「それで?」
「いいよって言って、遊んだの。コマしたの。もう少しコマしたかった・・・」
・・・もう少し、ちゃんとふたりで距離を縮めたかったんだろうな・・・。
「ちゃんとケンカ出来てよかったね!」
「そうかなぁ・・・」

翌日の帰り道。とても嬉しそうにそのお友だちと遊んだことを話してくれました。まるで、マブダチにでもなったかのように。

気まずい気持ちに蓋をせず、自分もちゃんと傷ついた経験になったのかな?
「悪かったな・・・」の気持ちをちゃんと持ててよかった。その分、思いやれるようになっていくんでしょうね。

正直(サティア)に生きていってほしいと思います。自分をぶつけたから、跳ね返ってきた自分の悪いところも見えて。我慢しなかったから、本当は仲よく遊びたいって、ただそれだけだってこともわかって。

大人の私たちもちゃんと、こうやって整理整頓出来たらいいのに・・・なんて思いました。この怒りはなんでなんだっけ?って。

心地よくありたい。でも、心地よくない世の中だ。相手だ。だから文句が出る。・・・・・・でも、心地よく「ある」ために、心地よく「したい」が出てくるまで、ちゃんと向き合っていない時がある。

「Be」のために「Do」すべきこと。
忙しい毎日の中で、少し立ち止まって見るのも大切かもしれません。
子育て中、子どもたちはそうやって私たちに「今を生きること」を伝えてくれているのかもしれません。

正直(サティア)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。
ヨガ・スートラⅡ-36


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文 ヨガインストラクター ミヅホ/編集 七戸 綾子