見島の讃岐防という社坊に江戸時代の終わりに描かれたと思われる北前船の絵馬が奉納されています。ここの絵馬で北前船という言葉を知りました。

北前船とは、江戸時代、北海道、東北、北陸などを経て、瀬戸内海を経由して大阪、堺に至る航路が開発され、航海していた船です。

越後(新潟県)や加賀(石川県)越中(富山県)越前(福井県北部)など東北、北陸地方からの天領米を大阪、江戸へ運ぶ手段として始まり、後に北海道からもニシンや昆布など海産物を運搬する様になりました。

北前船は弁財船とも呼ばれ、七福神の一神で福徳財宝の女神である弁財天にあやかった名称で当時の大型船の総称です。初めは250石積みの船から700石積みの船が多く、本州沿岸に沿って南下、北上していましたが、次第と大型化され沖合航路を航海する様になりました。そして千石船と呼ばれる三本の帆柱を持つ大型船に発達していきました。大型化することにより一時に多くの積荷を目的地に運搬出来るからです。北前船の船型はずんぐり形で、少人数で船を操ることが出来るので、帆走に非常に優れていたと言われています。

見島の本村港ではなく、宇津港が北前船の風待ちの港として船宿も栄えたとのことで、海の旅は天候に左右されることも多く、何日も足止めされることがあり、逆にそういったお陰で文化が沢山入ってきたようです。

郷土史家の方の資料によると、萩沖はるか見島に三日間泊し避難したという記録もあり、港に避難したからと言って遊んでるわけではなく、仕事として雨や波にぬれた帆を干したり、傷んだ箇所の修理、天候回復をその地の神仏に祈願したりするのも大切な仕事であったそうです。
北寄りの風で見島に来て西南の風が吹くと下関方面に船出することが出来ず十日も十五日も足止めされると、日和申しといって船の大小により、三升、五升と米を出し合い、陸に上って角力(かくりょく)をとり村人に握り飯をふるまい見物させたり、相手をしてくれたりしたといいます。唄の上手な人は唄を歌い、それを習う村人もいて、太鼓も上手がいて習ったといわれ、宇津の人々の太鼓とドウサリ節、角力は北前の様式であったといわれています。
ドウサリ節、コメナデは、こうして島外から入った唄です。コメナデというのは北前船が長期間航海するので、船の航海中に玄米をシラゲル(精白する)ことをしなければならず、八丁杵で、ヤントセ、ヤントセと拍子を合わせて米をついたといわれ、この唄を言います。

三毛猫は、郷土史家福永さんのお爺さんが能登から持ち帰ったとか、今では島に沢山いるような気がします。北前船ではないですが...

郷土史家の方によると江戸時代に作られた日本海沿岸の航路を描いた「日本海辺全図」には見島の北部、宇津湾に線が引かれているそうです。
北前船の関係の本を読むと、隠岐や佐渡は寄港された港として載っていますが、
見島は風待ちの港だったので、載ってないものもあります。
記録というのは、注意深く見ていかないと見落としてしまいそうです。

秋田の西馬音内の盆祭りの彦三頭巾という布を被ったりするのに、この見島の盆踊りも手ぬぐいを顔に被って踊るので似ています。こういったものも、北前船などで文化が伝達していった影響なのでしょうか。
その盆踊りの中の民謡で、源平合戦の那須与一のことが唄われていると友だちに教えてもらいましたが、そういったことを拾い集めていくと本当にいろんな交流がある海の道の影響を感じます。

遭難船や難破船も大変多かったようです。

写真&文 野頭尚子