倒木のうえに芽生えたブナの実生。マッチ軸のような幹をぴんぴん立てた生まれたての姿を眺めているうちに、彼は同じ森にいるなじみの大木の姿が 浮かんできたという。

――いろんなところで芽吹いている実生たちには、きっとそれぞれに事情があって、そこで芽吹いている。ボクが出会ったこの実生だって、ネズミが運 んだ種かもしれないし、苔のはざまに転がってたまたま芽が出たのかもしれない。どちらにしても芽吹く場所を選ぶことなく自分の意志で一歩も動かず に、彼らはこれからの時間を生きてゆく。

 ボクらはよく、実生をみては「ほとんどは淘汰され、成長できるのは数%ほどだ」とか、大木をみては「樹齢約100年だろう」などといった話をしてしまう。そうした樹々の生きざまを数字で計ろうとする価値観も、人がつくりだした世界のもの。数%とか100年とか、そんな数字をもってなにか を「わかった」気になってしまうと、読みとれる物語の幅は狭まり、ボクとまわりの森をつなぐ「ふしぎ」は薄まってるんじゃないかな。ま、なにもそれは自然だけに限ったことではないんだけどね。

 ボクが森のなかで生活しているとき、最初の1~2日は心地よい興奮があるものの、好きな音楽が聞きたいなとか、美味しいものを食べたいなとか、 どこかに街の生活を引きずっている感じがあるんだ。でも5日、1週間と続いていくなかで、ふしぎに気持ちが静かになってゆく。そうなると、食料の ある限りにここにいたいよ、などと本気で思ったりしているボクがいる。

 ふだん多くの人に囲まれて人の約束事のなかで生活しているボクの体にだって、人の価値観がつくった時間が流れている。この小さな実生が、あの大木のようになれるかどうかなんて、わからない。けれど少なくともあの大木にも、この実生のような時代が絶対にあったのだ。そう腑に落ちたとき、自 分のなかにも「生命の時間」が流れていると確かに信じられたんだ。それから、ボクは森に「在る」ことがぐんと楽しめるようになった。――


 ある心理学者の言葉を彼がつぶやいた。「わかったと思うほど、その人から遠く離れたことになる」。人であれ森であれ、何かをはじめるとき、「わからない」から芽吹く関係が、ひとしお大切なことを授けてくれる。

写真 細川 剛  / 文 おおいしれいこ