――いったいなんで「赤ライン」が森のなかにあるんだろう? 芽吹きの季節を終え、樹々の緑のグラデーションもしっとり落ち着き、梅雨前の爽やかなシーズンを迎えていた。この日、緑陰にみえ隠れする赤い色に誘われて、森のなかへ分け入ってみた。赤ラインにみえたその色は、ムラサキヤシオツツジの花びら。いつもの森の場所から少しはなれた崖下を縁どる花の色。ふとみあげればツツジが彩る樹々があって、そうか、だからこんなにたくさんの花が集っているんだなあーなんて眺めているうちに、散り花の妖艶な空気のなかで、いつの間にかボクは写真を撮らされた。そう、まったく魅入られ「撮らされた」のだと思う(笑)。

 いつの頃からか、ボクは咲き誇っているときの花より、それらが散って朽ちてゆくときの花に、いっそう惹かれるようになった。花に限らず、落葉や倒木たちをみると、気持ちが落ち着くんだ。それは枯れても朽ちても、それが生命(いのち)の終わりじゃない。そんな「生命の流れ」を、ボクに気づかせてくれるからだろうか。――

 
 ツツジの散り花をめぐり、彼とのおしゃべりがあっちへこっちへと弾んでいくなかで、ちょっとおもしろいことを教えてもらった。なんでも日本人は元来、自然は「じねん」といって呼んできたらしく、それが明治に西洋文化が入ったときにNatureという英語に「自然」をあてた際に、「しぜん」と読むように翻訳されたのだと。「じねん」は、「自ずから然(しか)らしむ」、「在るがまま」といった意。散りゆくツツジと同じく、人の生命の流れも「じねん」、在るがままと思える民族なのだ、私たちは。

 きのうまで咲き誇っていた花が、きょうは散り落ちて、やがて朽ち土へ還る。朽ちることは、変化であっても、終わりじゃない。そして終わりは始まりであり、生命にはつねに「つづき」があるのだ。人が老いることも死ぬことも結末ではないと、誰にみられることなく咲いて枯れゆく花たちが教えてくれる。そうと気づけば、たとえいまが苦しくても、つねに希望は残る。

写真 細川 剛  / 文 おおいしれいこ